芸術とか

考えてみれば自分はまったくもって芸術に向かない。

いや、知っていたんだけどね。

 

たくさん本を読んだし、英語もそれなりに話せる。

言語能力が低いわけではないのだと思う。

行間や空気を読む能力で生き抜いてきた。

それでも表現の良し悪しについてはピンとこない。

「この人の文章が好き」「この人らしい表現」みたいなものは、

村上春樹の「やれやれ」くらいしか認識できない。

ちなみに春樹の本は一冊も読んだことがないので、特に好きではない。

文章を書いた人がカッコつけているかはわかるが、

文章自体がカッコつけてるかはわからない。

全然だめ。

 

音楽についても、10年程ピアノを習わされていたので、相対音感くらいはある。

ただ、こちらについても良し悪しはよくわからない。

むしろ「ノーミュージックノーライフ」とか言ってる奴らとは相容れない。

なんだそれ、気持ち悪い。

音がなくても人間は生きる。

会社の同僚が「音階がない音は雑音なので耳に入らない」とか言っていて、

めちゃくちゃダサいなと思った。

音楽を愛する人間の嫌なところを集めたような発言だな。

 

絵はまだましだ。

特に好きな展示は距離が遠くても見に行ったりする。

なにかを作りたい気持ちだって常にある。

ただ、自分がインプットもアウトプットもたいしてできないとわかっているので、

見ても作っても最後には辛くなってしまうのだ。

少しでもわかるとこれだ。嫌になる。

この世界の色彩が目に入らなくなったらと想像するとかなりキツい。

それでも「ノーカラーノーライフ」とかダサく生きることもままならない。

どうせ見えなくったって私は生きる。

その程度だ。

 

こうやって箱に自分を閉じ込めて、どこにも行けず何も生み出せずに、

ただモヤモヤとした気持ちを抱えて生きていくのだ。

ダサい生き方を自分に許容せずに生きる。

大人みたいでだめ。

 

いつかどこかのメンヘラが「私は繊細な感性を持っている」と宣言していた。

最高にダサくて芸術的だと思った。

芸術ってもしかしたらダサいのかもしれない。

私はなんだか格好良く生きたい気持ちが消えなくて、芸術に向かないみたいだ。

見栄っ張りだね。

もっとちゃんと捨てられる人になりたかったな。

研究に必要な人材

ここ一ヶ月ほど研究から離れた生活をしている。

考えてみれば学生時代に研究を始めてから初めての経験かもしれない。

無理に始めようと思えば始められるし、

そのための準備はしてあるのだが、

めったに無い機会なので少し離れた生活をしてみるのも良いかなと考えている。

 

大学に入った時点で、医学部に進むか研究をするかという環境だったので、

野心や夢を特に持たずに、気がついたら研究をやっていた。

大学進学の際に医者は自分のメンタルで続けることは不可能だと

踏ん切りをつけたあとだったので、研究者になる以外の道がなかったのだ。

研究者になるなら博士号を取得することが当たり前と、

特に何も考えずに長い間大学にいた。

自分が研究者に向いているかなんて、

実は一度もきちんと考えたことがなかったのかもしれないな。

 

博士号を取得したあとで、

「自分には何もわからない」ということがよくわかった。

一般的に賢い人間に分類される肩書だと思うのだが、

そんなものを得る過程で、自分の中にその賢さを得た感覚は一切なかった。

むしろ自分は無知で無能だとわかっただけだった。

他の博士号取得者がどう考えているのかはわからないが、

私は「なるほど、これが世界か」と感じた。

長い時間と金をかけて、何もわからないということだけがわかる。

すごいことだ。自分はけっこういいものを手に入れたものだ。

 

研究は地道な努力の積み上げだ。

他の全ての物語と同じで、結果が出る保証はどこにもない。

「努力は必ず報われる」なんて言い切っちゃう研究者は少数派だと思う。

「結果を伴わない努力は努力じゃない」と

まるで正論のようなものを振りかざす人を鼻で笑うのが研究者だ。

人間の生存スパンで現在進めている

研究の貢献が認められないことなんてざらにある。

歴史はノーベル賞をもらえないまま死んでいった

偉大な研究者たちの名前を知っている。

我々の研究が、

経済活動や人の命を救うような結果になるかどうかなんて誰にもわからない。

全ては運でしかない。

運による結果論だ。

見通しが立つ研究はすでに誰かがやっているのだ。

 

現在の研究費の予算立ては、将来性を見越して、

選択と集中を目指している。

だが、全ての研究者は研究費こそバラマキが必要な分野だと認識している。

どの研究が成功するかなんて

誰にもわからないギャンブルだという認識が欠けている。

世界中のみんながやっている、

なんかちょっとやればうまくいきそうな分野に集中してお金をかけて、

倍率1.01みたいな賭け方しか許されなくなってしまった。

おそらく、日本の科学は死に絶えるだろう。

 

さて、ここまで考えてみると、自分は研究職には向かないなとわかる。

漠然と自分は大学に残って研究を続けるべき人間ではないと認識していた。

ただ、その理由については長い間言語化できないままモヤモヤとしていた。

自分は情報収集を得意とし、知的好奇心は旺盛な方だ。

論の穴を見つけたり、

組んだりすることも世の中の平均以上にはできると思う。

共同研究者のおかげで論文リストを見ても、

よいジャーナルに名前を残せた。

アカデミアに残るべきと何度か人から勧められたので、

研究能力が人より劣るというわけではなかったのだと思う。

私が求める研究者像に対して、自分が足りなかったのだ。

自分には企業研究の方が向いていた。

 

ここ最近研究を一時中断したせいで、

脳みそのリソースが余りまくっていて、

ぼんやりといろいろなことを考えている。

そうしてようやく自分がどんな研究者像を求めているのかがよくわかった。

私はギャンブラータイプの研究者に憧れているのだ。

そして、それができないから、研究には向かないと考えてしまうのだ。

私は人生を賭けるほどの研究テーマに出会い、

練りだしたアイディアに心を震わせ、

一つのことに時間を忘れて情熱を注ぐことはない。

絶望するほど悲しいことだが、憧れの研究者像に対して、

自分はくだらないつまらない人間だ。

人が作ったものの組み合わせで、

実現可能性がある程度保証されている作業を

すすめるくらいが自分にはちょうどよいのだ。

 

そうは言っても、研究職に向かない自覚はあるが、

しばらく休憩を挟んだところで私は研究に帰っていく。

どんなに向かないとしても研究を愛している。

使えないという判断が下るまでやめるつもりはない。

 

一緒に仕事をしている人の中に、

きちんとギャンブラーは存在する。

自分は賭けごとにむかないが、

彼らを補助することで研究活動は進められる。

天才にはなれなくても、

頑張れば天才に憧れる秀才にはなれるだろう。

つまらない人間として生きることはとてもつらいが、

きっとそういう研究者も必要なんだろう。

専門知識とその責任者

オプジーボを求めるがん患者がとても増えている。

ノーベル賞の効果はすごい。

私の親類も「あのノーベル賞を取った薬で自分の大腸がんが治るのか」と

医者に尋ねたと話していた。

もちろん医者には「適用外」と丁寧に説明されたとのことだった。

 

今度は風邪薬の話をする。

風邪の原因は実はほとんどの場合ウイルスだ。

にもかかわらず、抗菌剤を求める患者がとても多いらしい。

ひどい場合だと、

抗菌剤を出してくれる医者に会うまでドクターショッピングをする患者すらいるとのことだ。

 

現在、世界レベルで耐性菌が問題になっている。

これまでの抗菌剤が効かない菌が出てきているのだ。

これは、菌の遺伝情報が更新されたことと、

自然淘汰が原因と言われている。

つまり、これまでの抗菌剤乱用によって、

既存抗菌剤で殺せなかった菌が生き残って増えているのだ。

 

製作者とユーザーの間に

専門家がコントロール役として存在している医療システムでさえ、

こんな問題が起こり続けている。

当然抗菌剤乱用の責任者として、

不必要に薬剤を処方した医者は批判されている。

さて、この場合、製作者やユーザーは清廉潔白と言えるのだろうか。

 

オプジーボであれば、重篤な副作用が存在するため、

比較的厳重に利用されている (と信じたい)。

そもそも、免疫チェックポイントシステムなんていう

わけのわからないものに関係して、

がんを自分で攻撃さえている薬なので、

免疫システムが暴走するのではという恐怖が付きまとう。

医師の説明があれば、患者も無理に手を出そうとはしないだろう。

一方で、風邪の際に抗菌剤を求める患者は、

風邪やウイルスや菌がなんなのかも理解していない状態で、

全く無意味な広域抗菌剤 (複数の菌に有効な薬) を欲しがったりする。

 

一般ユーザーが全員菌やウイルスの知識を持ち合わせることはないだろう。

ユーザーの自己責任と言い切ってしまえば楽だが、

今後も専門家によるサポートが必要だろう。

 

どの業界でも、専門家と一般ユーザー間の対話が必要だ。

「副作用や風邪の原因など、調べれば誰でもわかるので、医者や薬剤師は不必要」

とはならない。

責任をもつべき専門家を確保し、

彼らがその責任に応じた給与をもらうシステムを維持するために、

我々はどうすればよいのだろう。

科学と神

日本人には当たり前でも、他国民にとっては常識ではないってことは多々ある。

進化論と創造説がまさにそれだ。

アメリカでは進化論を正しいと考えているのは、

国民の40%に過ぎない [Jon D. Miller, Eugenie C., Shinji Okamoto, “Scott Public Acceptance of Evolution,” Science, vol. 313, 2006 Aug 11.]。

未だに創造論こそが唯一絶対の真実と信じてる人がとても多いのだ。

アメリカで大学に通っていた際、生物の授業が宗教論で度々中断したことに驚いた。

多くのアメリカ国民にとって、進化論とは受け入れがたい神に対する冒涜らしい。

 

実際には、進化論はかなり多くの科学的データで多面的に裏付けが行われている。

一方で、創造説をサポートし、

進化論のデータを覆せるデータは、今のところ出てきていない。

にもかかわらず、様々なデータを用いて、

進化論の定説の一部に存在する矛盾を指摘することで、

この論を全否定する人はとても多いのだ。

つまり、進化論を悪と決めつけた科学研究が世界中で数多く行われているということだ。

進化論周りの議論には気を付けたほうが良い。

 

そもそも、そういった「結論ありきの研究発表」は、

事実と考察の間が飛躍していることが多い。

事実と考察と妄想がごちゃまぜになっているのだ。

個人的には、

これらを切り分けられるようになって初めて科学者を名乗ることができると考えている。

サイエンスの世界では、データや数値が自分や他人を簡単にだます。

その妄想が事実である可能性を捨てきることはできないが、

飛躍した妄想をサポートするデータが存在していないのであれば、

その妄想を科学とラベル付けすることはできない。

きちんとSF小説として発表するべきだ。

 

少しの事実が混ざった嘘は本物に見える。

妄想を事実と取り扱うことは、科学という神に対する冒涜だ。

花坂埖だった人

数年前に花坂埖という人にネット経由で知り合った。

詳しくはリンクを参考にしていただきたい。

menhera.jp

 

機能不全家族の中で育ち、不登校と引きこもり期間が長かったために、

生まれもった発達障害と折り合いがつかず、

問題に適切に対処して生きる術を持たなかった彼女は、

出会った当時、非常に未熟な人間だったように記憶している。

彼女は間違いなく鬱と甘えが酷い厄介なメンヘラだった。

それでも彼女と友人関係を続けてきたのは、

彼女が邪悪な人間ではなかったからだ。

なにより、彼女は他人を傷つけることに対して開き直れるほど

計算高くなれない大変善良な人間だった。

 

よく言う「悪い人ではない」という免罪符を振りかざす、見苦しい人間が多い中で、

彼女は持ち合わせた免罪符をうまく活用することさえできない不器用な人間だった。

社会というものはルールさえ理解してしまえば存外に甘くて、

媚びてかわいそうな顔をして謝っていれば、

だいたいのことはなんとなく許してもらえるものだ。

そこを、相手の怒りを鎮めるためのポイントを徹底的に外し、

煽って燃料を投下してボヤを大火事にするのが彼女だった。

 

花坂埖という人はもう存在しない。

ある時、私と彼女の中の人が、葬り去ろうと決めたのだ。

過去や障害や病気やトラウマを言い訳にして

傷をなめ合ったり見返すための人間関係を築くのをやめて、

所々の問題を自分の物として受け入れて未来の自分を生きやすくするために、

花坂埖という人の葬儀を行った。

 

4月から、花坂埖の中の人は専門学校に入学した。

クラスの男子がグループワークをこなしてくれないとか、

一緒に過ごす女の子の恋バナ(?)だとか、

そんなよくある学校生活の悩みに生まれて初めて向き合っている。

つまり、健常者の輪の中で健常者と問題なく人間関係を構築しているのだ。

彼女は甘えて逃げることをせずに、社会で生きることを選択した。

 

これからも辛いことやうまくいかないことがたくさんあると思う。

そのたびに自分の障害や家庭環境に責任を押し付けたくなるだろう。

自信が持てず、間違った方向に努力して、自分で自分の首を締めることは今でも多々ある。

そんなことはわかりきっているのだが、

それでも私は彼女をこれからも応援するのだと思う。

前を向いて進もうと決めた彼女を私は尊敬している。

 

2度も誕生日を祝うことになるなんて考えてもいなかったよ。

2年間よく頑張ってきたね。

新しい一年はこのまま進んでいけば大丈夫だと思います。

 

誕生日おめでとう。

食べるということ

眠れないことに対してあまり抵抗がない。

数時間睡眠で会社に行く日々もそれほど辛くはなかった。

眠りたいという欲が薄いのかもしれない。

一方、食欲に関してはそうはいかない。

食べ物に対する執着は一生消えることがないと思う。

 

食物は自分の一部になる。

着る服やメイク、言葉遣いや絵や癖字以上に重要視している。

一度受け入れてしまえば、自分の一部として定着する。

口に入れてしまえば、そいつはもう私になる。

毎食、どういう自分になるのか選んでいる。

自分を良いものにしたいという気持ちが少しでもあるなら、

食べ物は選ぶべきだ。

食べ物もやはり化合物だ。

炭水化物と脂肪とタンパク質。

それに多少のミネラル。

それらをうまくやりくりして、明日の自分を作るのだ。

 

私は自分自身に出来る限り責任を持ちたい。

周囲に流されたくない。

誰かに決められた自分で明日を生きて行きたくない。

だから、明日の自分をどうするかを自分で決めたいのだ。

 

今夜は鍋を食べたい。

冬の鍋はあたたかくてたくさん野菜が食べられるのでとても良い。

最近の私は鍋でできています。

みなさま、もうすぐおやすみですね。

正月太りしないようにお気をつけて。

薬ってなんだと思いますか?

 

薬が存在すると、病気は治るものだと考える人が多いように思う。

ただの化合物によくそこまで夢が見られるものだ。

薬とは、病気を引き起こす標的タンパク質と結合しやすい化合物の中で、

標的以外のタンパク質と結合しにくく、

溶解性や膜透過性などの物性が良い物のことだ。

それ以上でもそれ以下でもない。

標的以外のタンパク質とは結合しにくいが、完全に結合しないわけではないので、

だいたいどの薬にも副作用がある。

 

メンタル系のお薬や最近流行りの免疫関係の抗体は特に複雑だ。

脳内に侵入し易い比較的小さい化合物や浅いタンパク質のポケットに結合する巨大化合物を必死に探して薬として扱っている。

我々の身体の中身は複雑なネットワークになっていて、

メンタルの薬の多くは、標的となるタンパク質がわからないものも多い。

人間と動物で標的となるタンパク質がよく似ている場合、

動物実験から研究開発を進めることが可能だが、

そもそも標的がわからなければ、動物実験が有効かすらわからない。

巨大化合物は、通常の方法で大量に合成することが難しく、生物に作らせるしか手段がない。

そういったわけで、薬の開発には莫大なコストがかかる。

研究開発を今後も進めるためには、薬の値段を上げざるを得ないのだ。

 

これがままならなくなっている分野がある。

抗菌剤開発だ。

新規製剤を開発しても、菌類はすぐに耐性菌を生み出して、無効化してしまう。

次々と新しい薬を開発しなければならない。

薬を販売しても、コストが回収できない。

現在世界中で多剤耐性菌の問題が出てきているが、

これに対抗する薬を開発している会社はほんの一握りだ。

多くのメガファーマは儲からない抗菌剤開発からすでに手を引いてしまっている。

菌類が人類を滅ぼす日は目前に迫っている。

 

薬ってなんだと思いますか?

 

薬は化合物です。

薬品開発の影には必ず研究者が存在します。

科学者は魔法使いではありません。

彼らは地道に薬を探し出しているのです。

標的タンパク質に化合物を片っ端から加えて、

少しでも結合するかを確認していくのです。

標的タンパク質は構造すらよくわからない事もあります。

どんなものがくっつくのか見当がつかないことも多いです。

せめてタンパク質の形がわかればと、何年もかけて構造解析を行っている人たちもいます。

一人の科学者が、生きている間に関わった薬が一つでも製品化すれば幸せだと言われているそうです。

 

薬品開発の影には必ず犠牲になった動物が存在しています。

薬害はあってはなりません。

そのために、数種類の動物で有効性や毒性試験を行うのです。

遺伝子操作によって癌化させられたマウスや、人間の数千倍や数万倍の試験品を投与されるチンパンジー。

彼らの死を経て、薬は人に投与されるのです。

薬って魔法でもなんでもないんですよ。

 

薬ってなんだと思いますか?

不機嫌で他人をコントロールする人

不機嫌を制御できない。

もっと言ってしまえば、全ての感情をコントロールできない。

10月に職場に来た新しい人にも苦笑いされるくらい、

感情が言動に全て出てきてしまう。

基本的に内緒とか秘密とか言葉を押し込んで他人と付き合うこともできない。

つまり、女社会には適応できないのだ。

本当に理系でよかったと思う。

 

「負の感情を自分で制御できてこその大人だ」

そんなこと10代の頃から知っている。

私は感情を制御しようとして、笑えなくなってしまったことがある。

その時は、一年間友達がいなかった。

制御できないことがつらくて、うつ状態になることも多かった。

異常だと病院を進められることもあった。

今でこそそれほど問題にならずに生きてはいるが、

それは、私よりも異常な人たちと生きることを選んだだけだ。

場所を変えれば今でも私は異常だろう。

本当に辛いことだけれど、私は一生大人になれない。

ただ、私は他人をコントロールするために不機嫌になるわけではない。

単純に頭がオカシイので脳内外の感情が繋がっているだけだ。

 

そういえば、私の身近に不機嫌で他人をコントロールする人がいた。

私の母だ。

不機嫌な彼女が求めることを想像して、彼女の機嫌を取り続ける子供時代だった。

私は彼女の全てを理解していなければいけなかった。

おかげで、他人を読むのは得意な方だ (他人をよく理解できるというわけではない)。

そういう支配的な人とは縁を切るべきだ。

私もそうした。

 

感情を制御できるようにはならないだろう。

だからこそ、コントロールされない他人と一緒にいたい。

共感や理解が欲しいわけではない。

わからなくても許容してくれる器の大きい人としか一緒にいられない。

 私は不機嫌で他人を操りたいわけではない。

私は母にならない。

ズレる

ADHDは探しものが苦手という話をすると、

「みんなそんなもんだよ」となる。

自分も最近まで健常者の「みんな」とADHDの違いがわからなかった。

説明を受けてもしっくり来るものがなかったのだ。

 

最近とある体験記で、

ADHDの問題は視覚として入ってきた情報に対する認識に問題がある」

ということが書かれているのを読んで、ようやく納得がいった。

片付いた机の上の鍵を探せないのがADHDであり、

洗濯物を1枚2枚たたみ忘れて床に放置するのがADHDらしい。

片付いていない机の上の鍵を探せないのが「みんな」であり、

洗濯物を全部たたむか全部たたまないのが「みんな」なんだろう。

ああ、それはとても大変だ。

 

もちろん重症でない人であれば問題は露呈しにくいだろう。

そうなるとADHD患者本人でさえ、自分の問題を「みんなのよくある問題」と切り分ける事ができなくなってしまう。

そうして、ADHDの問題はますます理解されず、

ただの甘えだという偏見が生まれてしまうのだろう。

 

自分は寛解した双極性障害気質の人間だ。

完治する病気ではないので、最近では躁うつ*1気質と名乗っている。

ADHDの問題について理解が少し進んだ今、躁うつについて考えてみると、

躁うつに関しても似たようなことが言えるのではないかと考え始めた。

 

躁うつ病の人間は極端な思考に囚われたように異常行動を起こす。

しかし、実際の脳内について冷静に分析すると、

偏った思考以外に何も存在しないわけではないのだ。

少なくとも自分の場合、躁うつどちらの状態になっていたとしても、

多角的思考が脳内のどこかに必ず存在している。

そりゃそうだ。

躁うつを繰り返しているのだから、どんな状態の時であろうと、躁もうつも脳内に存在している。

我々の脳は一般的なものより、よほど多角的だ。

 

では、そんな多角的なはずの脳がどうして極端な思考に至るのだろうか?

それは、単純に、1つの声以外がミュート状態になってしまうからだ。

これは、ADHDの人が「見えているのに認識していない」状態とよく似ている。

脳内にたくさんの情報が存在しているー考えているのに、

我々はそれを認識する能力に問題があるのだと思う。

ADHDであれ双極性障害であれ、

インプット情報を脳が正しく認識・処理していないという問題があるのだろう。

 

他の病気についてはよくわからない。

同じように考えてみたら何かわかるかもしれない。

自分の興味は発達障害双極性障害の2つに絞られているので、

これ以上考えないだろうな。

何かわかったら教えてください。

*1:躁うつを躁鬱と書かない辺りで察してください