ズレる
ADHDは探しものが苦手という話をすると、
「みんなそんなもんだよ」となる。
自分も最近まで健常者の「みんな」とADHDの違いがわからなかった。
説明を受けてもしっくり来るものがなかったのだ。
最近とある体験記で、
「ADHDの問題は視覚として入ってきた情報に対する認識に問題がある」
ということが書かれているのを読んで、ようやく納得がいった。
片付いた机の上の鍵を探せないのがADHDであり、
洗濯物を1枚2枚たたみ忘れて床に放置するのがADHDらしい。
片付いていない机の上の鍵を探せないのが「みんな」であり、
洗濯物を全部たたむか全部たたまないのが「みんな」なんだろう。
ああ、それはとても大変だ。
もちろん重症でない人であれば問題は露呈しにくいだろう。
そうなるとADHD患者本人でさえ、自分の問題を「みんなのよくある問題」と切り分ける事ができなくなってしまう。
そうして、ADHDの問題はますます理解されず、
ただの甘えだという偏見が生まれてしまうのだろう。
完治する病気ではないので、最近では躁うつ*1気質と名乗っている。
ADHDの問題について理解が少し進んだ今、躁うつについて考えてみると、
躁うつに関しても似たようなことが言えるのではないかと考え始めた。
躁うつ病の人間は極端な思考に囚われたように異常行動を起こす。
しかし、実際の脳内について冷静に分析すると、
偏った思考以外に何も存在しないわけではないのだ。
少なくとも自分の場合、躁うつどちらの状態になっていたとしても、
多角的思考が脳内のどこかに必ず存在している。
そりゃそうだ。
躁うつを繰り返しているのだから、どんな状態の時であろうと、躁もうつも脳内に存在している。
我々の脳は一般的なものより、よほど多角的だ。
では、そんな多角的なはずの脳がどうして極端な思考に至るのだろうか?
それは、単純に、1つの声以外がミュート状態になってしまうからだ。
これは、ADHDの人が「見えているのに認識していない」状態とよく似ている。
脳内にたくさんの情報が存在しているー考えているのに、
我々はそれを認識する能力に問題があるのだと思う。
インプット情報を脳が正しく認識・処理していないという問題があるのだろう。
他の病気についてはよくわからない。
同じように考えてみたら何かわかるかもしれない。
これ以上考えないだろうな。
何かわかったら教えてください。
*1:躁うつを躁鬱と書かない辺りで察してください